パレスチナ問題について

私が入っているMLの管理人さんからのメールを転載します。パレスチナ理解の役に立てば、と思います。

---------------------以下転載文---------------------
xさんへ

イスラエルが、アメリカ大統領の選挙戦でユダヤ人の票が欲しいために、国連憲章の
原則を無視して(住民の同意も得ないで)、3000年前に一時期栄えた事のある時
代を切り出して人工的につくられたと言うことー−つまり現在のパレスチナ人は何ら
悪いことをしていなかったのに家を強奪されて今厳しい難民生活を強いられていると
いう事実は、何回言っても重要です。

今ユダヤ人が豪壮なマンションに住んでいる傍らで、テント小屋や石を積み上げた小
屋にパレスチナ難民が住み、家族はバラバラにされてしまし、あるいは殺されてしま
い、自分の故郷に帰るにもテロリストの侵入だと射殺されてしまいます。

土地を強奪した者と自分の土地から追い出された人々だとことです。
強盗と家族全部が身ぐるみ剥がされて住む所も満足にないという極端にちがう立場に
たたされていることが認識されているとすれば、現在のパレスチナでの紛糾に対する
見方が変わって来るという意味で、是非とも認識し、記憶しておいてほしい歴史的認
識なのです。

「そんな過去の事を言ったって仕方がない」と言うのはパレスチナ人は泣き寝入りし
ろ、しょうがないだろうということになってしまう。


兎に角、国連が毎年11月23日をパレスチナ連帯デーとして、国際的正当性にのっ
とった満足のいくやり方でパレスチナ問題が解決されるまで、努力をしているという
こと、少し希望の根拠が国連にあるのではないかということを示しています。

「今さらそんなことを言っても始まらないだろう」というスタンスは、「広島や長崎
の原爆被災者は今尚苦しんでいても、それは過去のことだから今さら言ってもはじま
らない」と考えると同じで、現実に今尚苦しんでいるパレスチナ人には、「いまさら
−−」の問題では済まされない今日の今でもつづいている切実な問題だと言うことだ
けは記憶しておいて下さい。



--

しかし、イスラエルは国連加盟の際に、パレスチナ難民を帰還させるか、帰還を望
まぬ難民には補償金を払うことを約束して加盟を許されたと言う経緯があります。

オスロー合意が、そのまま、守られているならそれでも平和共存に道に繋がったでしょ
う。 しかし、イスラエルによる占領や人権侵害,入植地の拡大政策が続いているの
が現実です。 インティファーダがつづいているのも、シャロン首相のエルサレムに
あるイスラム教徒の聖地への強行な踏み入れなど、パレスチナ人の権利を踏みにじっ
ているのが現実です。パレスチナ人が明日の希望をみいだせない絶望感から自爆テロ
のような不幸な事件があとをたたないのです。


だから、国連が、国連決議を無視し続けたのに対し、それを実行させていれば、今
日のような血みどろの惨劇は繰り返されなくてもすんだのだと思っています。

国連が国連決議を無視すると言うことは有り得ません。国連加盟国がその履行を強く
迫らないということはありますが。

国連加盟国がその履行を強く迫らないこと、とりわけアメリカが最終的に世界で支持
するのがアメリカの拒否権で葬り去られてしまうため国連決議はいつも棚上げもまま
なのです。これを世界の人々が真剣に考える必要があります。アメリカは、今度のア
フガニスタン空漠で、正義の実現には程遠い正体をさらけ出してしまった。悲しい現
実です。


これも、今更言うまでもなく、暴力によって罪のない人を殺すのは、許せない行為で
す。テルアビブ空港で亡くなったユダヤ人に心からの哀悼の意を表します。小生とし
ては、ユダヤ人であれ、パレスチナ人であれ、みんな人間の尊厳を持っているのです。
ひとりたりとその尊い命が失われることは許されないのです。現在のような悲劇的な
出てこないように努力することは、今後の世代のために小生は今生きている人びとの
義務だと思っています。 だからこそ、国連はイスラエルに国連決議を守らせる必要
がある
のです。


さっき言ったように、イスラエルはオスロ合意を守っていません。それを無視して入
植地を拡大し、それが定着するともう既成事実となってしまったから、もう諦めろと
いうやり方がシオニズムがこれまでとってきた常套手段なのです。
これがパレスチナ人をますます、絶望と抵抗に導いているのです。また、パレスチナ
人と共通のアラブ人としての兄弟愛を持つアラブ諸国に住む人々、また世界のイスラ
ム教徒、第三世界の人々の共感を呼んでいるのです。

罪のないパレスチナ人をその土地から追い出し、報復と称してジェノサイドのような
パレスチナ人を殺して平然としているイスラエルの指導者は加害者ではないのですか。

しかし、とにかく、イスラエル人はパレスチナ人の血の染みと追った土地に住み、オ
スロー合意にも満足せず、入植地を拡張し、さらにパレスチナ人の権利を奪っている
現実にたいして、国連加盟国がイスラエルに働きかける必要があると言う事が、パレ
スチナ問題解決の第一歩です。
とにかく、パレスチナにおける不正がなくなり、少
しでも真の平和が来るように、多くの人に働きかけていきましょう。
今更言ってもしょうがないなどと言うことは止めましょう。

____

小生、このMLにかける時間がそんなに多くはないので一括して意見を述べます。

多くの人が誤解していますが、パレスチナの自爆行動(自爆テロと呼ばれている)
は、テロでないのです。

もっとも、パレスチナ問題については、ユダヤ人の記者を中心に西欧のメディア(新
聞、テレビ、映画等等)で長い間掛けて世界の人々を洗脳してしまっているので、み
んな被害者です。

小生だってパレスチナの難民キャンプを訪問したり、パレスチナ人と直に接し、また
多くの本を讀み、翻訳本を出したりしてよりはっきり掴むことが出来たので、自慢で
きるのでないと思っています。

アラブの世界、恐らくイスラムの世界、そして第三世界の人々(もちろん異なる意見
を持つ人は何%かいるでしょう)は、テロだと思っていません。自分の祖国を取り戻
すための祖国奪還のための民族的解放運動なのです。
それは、ナチどいつに占領されたフランス人が第2次大戦中に行なったレジスタンス
運動と質的に変わらないのです。


____

小生が言いたかったのは、パレスチナ人が絶望的な状況に追い込まれてしまったこと
です。それは、本来、祖父伝来住んでいた土地を追われ、難民化され、イスラエルと
いった国が創設され、1948年の第一次パレスチナ戦争で国土は半分以下になり、
さらに1967年の第3次中東戦争で、イスラエルは従来の領土の3倍半におよぶヨ
ルダン川西岸地区を占領してしまいました。だが、国連決議242では「武力で占領
した領土からの撤退」と「イスラエルの存在の承認」を安保理で可決し、イスラエル
に占領地からの撤退を義務ずけました。

しかし、イルラエルは、パレスチナ側が譲歩に譲歩を重ねた末に合意をみたオスロー
合意を無視して、占領地を返すどころか、交渉を重ねている間に、癌が身体を蝕んで
行くように入植地を拡大して行ったのです。それは、交渉の隠れみのとしてその間に、
国連決議に背を向けて、大イスラエル実現を一歩一歩、実現して行くと言うイスラエ
ルの伝
統的な手法なのです。これは、イスラエル建国から、その歴史を見守ってき、かつア
ラブ連盟東京事務所時代から多くの文献を讀み、イスラエルの行動の歴史を知ってい
るものとして確信をもって言えます。


xyさんに

ただ、今思っていることは、このメールでの議論と言うのは、断片的なことを取りあ
げて議論することが多いので、片言節句でお互いに言い争うのは、建設的でないと思
いッて、メーリングリストへの投稿は差し控えた方がいいと考えたことがしばしばあ
ります。

まして、時間的制約のある小生が全部のメールを丹念に讀むことが出来ない以上なお
さらです。

xyzさんに

メール感謝します。

このMLでは、時々胸にジーンと来る励ましのメールを頂いたり、共感を覚えたと言う
感想を頂いたことがあります。

恐らく共感して頂いたり、少しは中東理解を深めることが出来たと喜んで頂いている
と方があると言う実感を覚えるからこそ、もう投稿をやめてしまうのではなく、諦め
ずにメールを続けてきました。それが、51回のアラブの訪問の中で、小生を激励し、
親切にしてくれたアラブの人々に報いる小生の義務だと思っています。

それに、東海大学で一年間、学生から「先生から直に触れたアラブの生き生きした話
しは、私たちにアラブ中東世界へ目を開くことができました」という感想を貰ったこ
とが忘れないのです。

授業では、アラブの劇映画のビデオとか、音楽カセットなど視聴覚の教材をふんだん
に使っていたので、講義が聞き易かったのでしょう。

パエスチナ問題は今後、アフガン問題にも匹敵する、いやそれにまさる重大問題となっ
ていくでしょうから、このMLでもパレスチナ問題に関心を寄せる多くの読者の中の何%
であってもその人々のためにどうして話さねばならない問題を報告します。

パレスチナ問題に関心をもっている皆さん。どうかどな素朴の質問でも結構ですので、
聞いて下さい。(また小生のホームページも讀んで下さい)

折角の機会ですので、パレスチナ問題についての思い出を一つ報告します。

         1959年   ガザの夕陽
    「帰国されたらパレスチナを忘れていまうでしょうね」

あれは、1959年の春でした(私が32才の時)。小生はカイロで開かれたアジア・
アフリカ青年会議の出席し、会議終了後に志願して、インド、インドネシア、ガーナ
の代表と一緒に小型のエジプトの軍用機でガザに行き、そこでアジアアフリカの青年
代表を歓迎する大集会に参加しました。確か、インドのネール首相の伯母さんに当る
年輩の指導者(ラメシュ・ネール女史だったか資料を探さねば名前は直ぐ出てこない)
が訪問団の団長として挨拶し、他の代表の2、3の挨拶があったと思いました。熱狂
的な歓迎でした。小生は当時まだ英語で演説をすることなどとても無理でした。

(余談ですが、カイロからの帰途、カルカッタ大学の講堂でインドの学生達1000
人の前でカイロのの会議について英語で報告せざるを得なかったのですが、清水の舞
台から飛び下りた思いで、英語の演説をしたら、それが案外巧くしゃべれたことが、
小生に一つの開眼になりました。)


脱線しましたので、ガザでのAA諸国青年代表歓迎集会のことに戻ります。1959
年時代はパレスチナの国土はオレンジや、オリーブの樹がたわわに実る美しい村でし
た。し
かし難民キャンプの生活は悲惨でした。難民とはこんなに厳しい生活を強いられたい
るかと言う怒りが込み上げてきました。

そして集会が終ってわれわれ10人程の代表団が空港に向かうバスに乗り込もうとと
した時、パレスチナの若い人びとが、別れを惜しんで駆け寄ってくれました。その中
でも背の高い屈強の青年が一人「ヤバニー!」、「ヤバ二−!」(日本人!)と駆け
寄ってきて、私を掴まえ、ほほにあついキスをしてくれました。小生は男性からキス
されるなって思ってもいなかったので、人形のように吊ってたのを覚えています。

そしてバスが動き出すと、その青年は小生を手を窓ごしに握ったまま走り出してつい

きました、バスの速度が早くなると手を離ざざるを得ず、手を離した後は、バスの後
部にしがみつき、最後に振り落とされてしまいました。その時バス後部の手すりにし
がみついていたため、バスに引きづられ、かなり、けがをしたのではないかと思いま
す。

 そして、ガザの空港についた時、飛行機が出るのを待つ間、ガザで英語を教えてい
ると言う若いパレスチナ人の女教師とパレスチナのことなど話し合いました。
 「ミスター・アベ、よくガザに来てくれて有難う。あなたは、今日のパレスチナ難
民キャンプを訪づれ、その悲惨さに胸をうたれたと言いいましたね。しかし、あなた
もきっと、日本に帰ったら、私たちのことを忘れてしまうのではないかと思っていま
す」と私の心を探るようにさり気なく言った。彼女は外国の代表から何度もこんな経
験をしていたのでしょう。

 私は、「いや、こんなひどい現実をきっと、日本に伝えますよ」と今見てきた泥で
固めた、すえた臭いのする小さな家にひしめくように住んでいた難民親子の姿を思い
浮かべ、きっぱり言いいました。あの時、空港の地平線に落ちる大きな真っ赤な太陽
を眺めながら交わした会話は時々私の心に突き指のように胸の中に甦ることがありま
す。

 果たせるかな東京に帰ると日々の仕事、生活のことに追われ、パレスチナのことは
つい心の中から消えて行ったようでした。それに何よりもパレスチナのことを東京で
調べようとしても、図書館に行っても殆ど本はありせんでした。第一世界地図のどこ
を探してもパレスチナのパの字も出てきません。


 アラブに関心を寄せ、映画が好きだった私は、カイロから帰国した1959年の秋
頃、気鋭の東欧映画専門の映画評論家(岩渕さんだったかと思う)と一緒に当時のエ
ジプト大使館の情報参事官に会いに行き、エジプト映画のことを話しに言った時のこ
とでした。私自身は1957年末にカイロでエジプトの優れた名作j映画2本を見る
機会があったので、アラブの映画をもっと日本に知らせたかったのでした。岩渕さん
は得意げに手帳を広げて、「私はテルアビブの映画人とも手紙で連絡をとっているで
すよ」と話したら、文化参事官はにやにや薄笑いをしながら2人に「TEL AVIVはどこ
の国なのか知っていますか」と聞き返しました。恥ずかしいことに、アラブの友だと
思っていた小生自身も気がついていなかったのですが、それはイスラエルの首都でし
た。2人とも顔を赤くして、暫く次の言葉が出てこなかったことを思い出します。

 こと程左様に、パレスチナのことは世界に何も知らされていませんでした。

国際的情報操作の巨大さをひしひしと感じますが、それは今でも猛威を振っています。
そして、本来憎みあい、殺しあわ合わなくていい人人が大国の情報操作によって戦争
をさせられているのです。

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