パレスチナ民主主義国家の必要性

 パレスチナ問題について、小生が何よりも強調したいことは、パレスチナ人もユダ
ヤ人も、本来、戦う必要はなかったということである。 この国の将来については多
くの人々によって論じられる必要があると思うけれど、最終的にはシオニズムの解体
しかないと思う。

 湾岸戦争戦争前までは、パレスチナの問題の根本に横たわるシオニズムに切り込も
うとした記事がよく掲載されたこともあった。しかし、あの連続テロ事件以後、この
ユダヤ人の人種差別主義シオニズム国家の解体にまで触れて書いた記事は、筆者の讀
んだ限りでは、週刊誌『AERA』(2001.2001,9:30号)に掲載され
た次の記事だけであった。

「怨念根絶にはイスラエル解体しかないーーシオニズムの行き着く先にあるもの」
  国家とテロの衝突なのか。善と悪との戦いなのか。報復ばかりでなく、事の真因

見極めることが必要だ。、そうすれば、日本の進む道が見えてくる。

                編集部 長谷川 照(ひろし)

貴重な示唆が色々書かれているので一読をお薦めしたいが、パレスチナ問題の解決策
として、長谷川氏は言っている。

 「考えられる破局回避のみちとしては、も宇津木のような案しか考えられないだろ
う。血まみれのイスラエルをいったん解体し、パレスチナから追われたアラブ難民も
吸収した新しいパレスチナ国家を創り出すことだ。その作業を、イスラエル、アラブ
諸国家、国連、米国、欧州が責任をもって果さなければならない。日本政府は、それ
を後押しする特別チームを民間人を含めて発足させる。______」

時間がないのでこれだけしか、引用できないので残念。

小生もこの問題の重要性については1970ー80年代にアラブ連盟東京事務所にい
た時から、追求していた問題などで、いづれ資料を整理してまた発言したい。基本的
に間違いないが、多分にパレスチナの解放運動が上昇期にあった頃の文章で楽観的な
見解が反映しているものと御理解下さい。


 パレスチナ人の今日のような極限状況に追い込んだことや、互いに憎しみ合う必要
のないイスラエルにいる一般ユダヤ人(シオニストの指導者や、拡張主義者を除いて)
がパレスチナ人との死闘を繰り返さねばならない現実を作り出したのは、西欧大国の
エゴイズムや、キリスト教社会のユダヤ人に対する病的な差別意識が問題視されるべ
きであって、ユダヤ人、パレスチナ人は、ともに犠牲者にほかならないのである。

 そして大事なことは、一般に考えられているようにパレスチナ人は、「ユダヤ人を
海に追い出そう」と意図してはおらず、むしろ諸組織が一致して、イスラム教徒、ユ
ダヤ教徒、キリスト教徒が平和で平等に暮らすことのできる「民主主義的パレスチナ
国家」の樹立を呼びかけていたことである。

 事実、バルフォア宣言までは、アラブ人もユダヤ人も共存して生活していた。

 今、イスラエルはPLOの譲歩すら無視し、パレスチナ人に過酷な抑圧を加えている。
その結果、ハマス(イスラム抵抗運動)の抬頭を招き、紛争解決の道を次第に狭め、
対立を一層激化させているのが現実である。

 記憶しておくべきは、中世に東地中海の沿岸地帯に国を築いた十字軍のキリスト教
王国も、周辺のアラブ人との共存に努めなかったため、二世紀を経ずして、歴史の舞
台から姿を消してしまったことである。 今でこそ、イスラエルは軍事的に優勢を誇っ
ているが、その傲慢な態度を捨てない限り、いずれ十字軍の運命をたどらないと誰が
保証できるだろう。
 1987年12月、イスラエルの占領下にある西岸とガザでは、アラビア語で「イ
ンティファーダ」と呼ぶ、パレスチナ住民の大衆蜂起が始まった。20年以上にわたっ
てイスラエルの占領下におかれ、政治的、社会的な権利を奪われてきたパレスチナ住
民の我慢がついに限界に達し、ほとんど戦闘準備のできていないままに、子供たちが
投石によって重装備のイスラエルに立ち向かい始めたのである。

 イスラエルはこれに対し、より過酷な弾圧政策で臨んでおり、それがまた、パレス
チナ人の抵抗を一層過激なものにしている。

  しかし残念ながら現実には、アメリカは国連安保理を利用して、崩壊するアメリ
カの経済を救おうという利己的な行動をとっている。

 なんといっても、アメリカはイスラエルには、膨大な軍事援助を行い、イスラエル
は原爆を始め、近代的兵器をふんだんに持たせながら、パレスチナ側が例えばイラン
から武器をまとめて購入しようものなら、パレスチナは平和を望まず、戦争を望んで
いると大騒ぎをする。まったくダブルスタンだ−ドに外ならない。

 パレスチナ問題をつくり出したのが、国連であり、世界全体でもある以上、今こそ
原点にかえって、国連は本当にこの問題を公正に解決する責任がある。これは197
0年末から、80年初期にかけてイギリスの歴史家、アーノルド・トインビー教授が
強調していたように、「全世界の人々がたとえ僅かずつであっても、パレスチナの悲
劇に責任をおっている」のである。

 こんなときこそ、世界で第二の経済大国である日本が、国連の中で果たすべき責任
は大きいはずである。パレスチナにおける悲劇を見るたびに、私は日本自身が「国際
社会における真の役割」を見つけるために努力すべきだとしみじみ思う。


  ここまで書いていたら、小生のホームページ「日本・アラブ通信」に次の文章を
載せていたのを思い出しました。もう耳だこの人がいらっしゃるかも知れないが、お
読み頂けば幸いです。

___________________

千一夜話 パレスチナ問題の解決法
パレスチナ国家樹立を目指す
パレスチナ解放機構「PLO」

 1964年、エジプトのナセル大統領の指導の下に、パレスチナ解放を目指す諸組
織をまとめる上部組織として「PLO(パレスチナ解放機構)」が設立された。この
PLOが設立された背景には、アラブ諸国の指導者たちが地下に潜ったパレスチナ人
武闘組織を自分たちの管理の下に組織化しようとする試みがあった。初代議長にはア
フマド・シュケイリが就任した。
●一方、PLOの誕生はパレスチナ人たちにとって、画期的な出来事だった。194
8年以来、パレスチナ人たちは、アラブ世界の中ですら、たんなる難民としてしか扱
われていなかった。 しかるに今や、パレスチナ人たちは、PLOという形で、アラ
ブ世界に市民権を得ることになったのである。いわばPLOは領土を持たないパレス
チナ難民たちの“国家”のような存在となったのである。
●PLOの設立と同時に、PLOの議会にあたる「パレスチナ民族評議会(PNC)」
が開催され、パレスチナ人の憲法ともいうべき「パレスチナ民族憲章」が採択された。
この憲章は、パレスチナ全土を対象として、パレスチナ民主国家を創設することを記
載していた。パレスチナ民主国家が創設された暁には、アラブ人もユダヤ人も同等の
権利をもってパレスチナに住むことが許されるはずだった。
 しかし住むことを許されるユダヤ人は、1917年のバルフォア宣言以前からパレ
スチナに住んでいた人達に限られていた。更にPLOは、その民族憲章で、「イスラ
エル共和国」の存在そのものを完全に否定していた。その後イスラエル政府が90年
代初頭に至るまで、執拗なまでにPLOを交渉相手と認めなかったことの原点はここ
にある。
●そこでアラファトは自分たちの存在をアピールするために、1964年12月31
日から対イスラエル武力闘争に乗り出した。最初は輝かしい戦果を挙げたとは言い難
かったが、政治的には大きな宣伝価値を持った。ファタハは武力闘争を行なうことに
よって、組織としての基礎を固め、他の競争相手に決定的な差を付けたのである。
 1965年を通じて、ファタハのゲリラ活動は成功したものだけでも39回に及ん
だ。パレスチナ解放のための具体的なアクションを起こしたファタハの人気は、パレ
スチナ人の間で急速に高まっていった。
●1967年の第3次中東戦争(6日間戦争)でアラブ諸国は手ひどい打撃を受けた
が、この戦争の惨めな敗北は、「アラブの大義」を掲げるナセル大統領の権威を決定
的に傷つけ、同時にその傀儡だった初代PLO議長シュケイリの立場を著しく悪化さ
せた。結局シュケイリはPLO内部からの突き上げのために退陣を迫られ、議長を辞
任。第2代PLO議長にヤヒア・ハマウダが選任された。
●パレスチナ解放を目指す各組織は、アラブ諸国軍を介しての郷土解放というプラン
に失望し、独自の武力闘争を進めることを決意。彼らはヨルダンとレバノンのパレス
チナ人難民キャンプに根を張って多くの支持者を集め、ソ連やアラブ急進派諸国から
援助を受けて組織力と戦闘力をつけていった。
 例えば、「サイカ」はシリアと、「ALF(アラブ解放戦線)」はイラクと結び付
いた。この他、「PFLP(パレスチナ解放人民戦線)」、「DFLP(パレスチナ
解放民主戦線)」などが共産圏諸国に結び付いた。「ファタハ」はアラブ民族主義を
強調し社会主義を唱えなかったので、サウジアラビアや湾岸諸国などのアラブ保守派
の陣営からも援助を受けることができた。
●こうして第3次中東戦争での大敗北を境にして、パレスチナ・ゲリラの対イスラエ
ル軍事作戦は、むしろ急増し、過激化し、活動舞台が国際的なものになっていった。
 1988年11月15日にアルジェで開催された「第19回パレスチナ民族評議会
(PNC)」では「パレスチナ独立宣言」が採択された。それはパレスチナの地を領
土とし、エルサレムを首都とするパレスチナ国家の独立を宣言したものであった。
 更にアラファトは12月の国連総会の場で、アメリカ政府が提示していた「キッシ
ンジャーの3条件」を受け入れ、公式にイスラエルの承認とテロの放棄を宣言した。
●しかし、この後に起きた湾岸戦争で、PLOはイラクのフセイン大統領を支持した
ため、更に苦しい選択を迫られることになった。湾岸諸国で働いていたパレスチナ人
は追放され、彼らの財産もPLOへの税金も没収され、サウジアラビアやクウェート
からのPLOへの資金援助も打ち切られた。PLOが深刻な財政危機に直面し始めた
のはこの時からである。
 PLOは80年代後半のインティファーダによる輝かしい勝利にもかかわらず、そ
して世界の119カ国がパレスチナを承認しているという外交的な勝利にもかかわら
ず、何の見返りもなしにイスラエルの存在の承認とテロの放棄を宣言させられ、アメ
リカに大幅な譲歩をすることになったのである。


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この機会に報告したいのは、小生がアラブ連盟東京事務所にいた時、せっせと訳した
パレスチナ問題の資料が、1966年の連盟事務所開設後まもなく発行しはじめた月
刊『アラブ・レビュー』とかその前進の機関誌『アラブ問題資料あるいはABC』と
して3年程の分量が東京都立図書館(広尾)に保管されていますので、詳しく調べた
い方は参照されることをお薦めします。

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