残照


いつからだろうか。
私は夢かも現かも明らかでない、恐らくはその狭間でただうつらうつら
漂っている。
生きているのか死んでいるのかもわからない。
寝ているのか覚醒しているのかも分からない。

このような状態になって、もうどのくらい経つのだろうか。
ひと月だろうか。二週間くらいだろうか。
ふた月だろうか3年だろうか。
5年前からだろうか2年先だろうか。
10年先だろうか200年前からだろうか。

ある意味私は時間や空間を超越した、彷徨人と言えるかもしれない。

私が彷徨うところは暖かく気持ちのよい場所だ。
硬いものや尖ったものは何一つない。
想像しうる全ての中で…もしこれがそうだとすれば、母胎の中とは
このような場所なのではないだろうか。

私はきらきらと輝く光に満ちた、気持ちのよい場所にいる。
そしてそこからかつての自分を見ている。

ある日。若くて力にあふれた私はどこを目指しているのか、きびきびと
した足取りで道を歩いている。

何となく見覚えのあるその道は、恐らく20代の初め頃住んでいた
住宅街の中の道だ。
私は顔を上げ、前を向いてきっぱりとした表情で歩いている。
そばをおぼつかない足取りで慎重に歩いている老人がいた。
老人は杖をついて、ゆっくりと歩いている。
白髪を綺麗に梳り後ろに一つにまとめ、暖かい色合いの服装に身を
包んではいるが、顔には深いしわが何本も刻まれ、長い人生の
紆余曲折を静かに物語っている。

私は若く美しく、そして力に満ち溢れてはいるが、その老人を見て少しひるむ。
何故か?

私は自分の行く先を思い、ひるんだのだ。

若い私は毎日を生き生きと楽しく過ごす。
友と語り遊び、美味しいものを美味しいと味わい好きなだけ食べる。
恋をして愛を語り。
心地よい睡眠を貪り……

そう言ったものは今だけのことなのだと心のどこかで悟っている。
一瞬だけの淡い幸福。
砂上の楼閣。
幸せなどと言うものはそんなものだ。

若い私はそんな事を心の中で考えている。

そして一刹那のうちにそう考えた事を忘れる。

私はきびきびとした足取りで歩いていく。
その歩みは死への歩みだ。
死へと、老いへと一歩ずつ確実に近づいていく歩みだ。
きびきびとした足取りで、転がり落ちていく。




ところがどうだろう。
私は今や一歩も歩く事ができない。
自在に手を動かす事もできない。
口を動かす事も何かを味わう事もできない。
生きているのか死んでいるのかも分からない。
何も見ることができない。

だが。
私は暖かい柔らかい気持ちのいいところで、やさしい明るい日差しに
包まれて、これ以上ないくらい心地よく過ごしている。
白昼夢だか極楽浄土だかは詳らかではないが、とても幸せだった。
私は自分がこの世に生を受けた事に素直に感謝する事ができた。

自分が何故今このようになっているのか全く覚えていないのだが、
今が一番幸せだった。

ゆうるりと時は流れ、そして遡る。
空間はふくらみそしてつぼまる。

過去への旅。
それは心躍る体験だった。
私は笑いながら若い自分を見ている。
未熟な自分も悩んだり苦しんだりしている自分も、
悲しんだり激怒したりしている自分も、それはそれでいい。
全てを私は受け入れて、穏やかに寛容に見ている。

こんなに穏やかで楽しい気分になったことは未だかつてない。
こんなに孤独だった事もかつてなかったはずなのに。

どんなに言葉を尽くしても、今の私の心の有様を表現しうる事は
できない。


やがて、私は自分の全ての過去を追うことを完了した。
私は穏やかな気持ちで地平の向こうを見つめている。
光の量はやや減ってきているように思われた。

夏の名残を求めて葉を落とし始めた枝のの向こう側を見ているような、
沈み行く太陽の残照を見つめているような、
そのような気分で、私は遠くを見ていた。

ますます翳っていく。
日は沈み、夜が近づいてきたようだった。
美しく煌く夏の日差しのような光の中で、彷徨っていた私は
今やじっとしている。
何かを待っているように。
淡い光の中ではもう何も見えない。

わずかな残照が、私をかすかに照らしているだけだ。
私はもはや何も思い出さない。
何も思わない。


やがて、夜の帳が下りて完全な闇が訪れた。
あるのは昏い静寂のみ。




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