春の訪れ

 

わたくしはここ大阪の西天満(にしてんま)と言うところで、この20年来小さな画廊を
開いて商売を続けている。この街は画廊が多く、高級で大きな画廊は少ないが、
小さな貸し画廊が通りにずっと軒を連ねている。それも一つの通りではなく、
この街一帯に、たくさんあるのだ。

たいがいの貸し画廊は、たとえば美術を描くのが好きな同好会向けから、
学生向けまでいろいろな種類があって、いかにもその愛好の士、と見受ける人達が
三々五々、のどかな雰囲気のこの街には散策している。

大阪の中心部のビジネス街、大きな商店街や歓楽街、そこをてくてくと歩いて
通り抜けていくと、やがて小さな商店や事務所、法律事務所、そう言ったちょっと
こじんまりした様子に街が変わってくる。そこに一隅をなすのが画廊街である。
とてものどかな雰囲気の、ゆったりしているけれど、それでいてにぎやかな通りもある。
庶民的で古い大阪の雰囲気を残すそんな街で、あっと言う間に20年がたった、
わたくしにはそんな気がする。

わたくしははじめから画廊主であったわけではない。この西天満からすこし南に
行った北浜と言うところにある、小さな証券会社に、短大卒業後に就職し、
それから何年か働いていたのであるが、結構きつい仕事で、当時若かったわたくしには
――少々正義感にあふれていたわたくしには――その仕事がとても自分の天職とは
とうてい思えないほど、ひどく胡散臭く思えたのである。
昼休みはもっぱら心を安らげるために、川沿いを散歩したり、それから橋を渡って、
西天満の画廊街を一人で散歩したりすることが多かった。
川を挟んで向かい側にある、ほんの近距離しかはなれていない、それなのに西天満は
ゆったり暖かく、人を包み込んでくれる雰囲気で、北浜は証券会社や、株取引所などが
集まっていて、人はいつも忙しそうに走り回り、とげとげしい。
神経をすり減らし、心をかたくなにする何かがある。
そう思いこんだ若いわたくしは冒険をしたくなった。

わたくしは何の知識もないまま、西天満の不動産事務所を回り、あいている画廊が
ないか聞き歩き、自分の考えている予算に合う画廊を見つけ契約し、それまでの
貯金をかき集めて払い込み、会社を突然辞めて周りを驚かせ(しかも女のくせに、
結婚するためでも転職するためでもない、何にも知らない若い女性が一人、
画廊を始めるために辞めると言うのだから周りが驚くのも無理はない)、たった一人で
ビジネスを始めたのだった。

わたくしは西天満の街を歩き回り、策をじっくりと練った。
貸し画廊ならいっぱいあるけれど、自分でオリジナルな画廊を作ろうと私は考えた。
もっと大阪のキタの方にある高級画廊のような、本当に良いものを扱う、
そして人が是非買いたい、芸術を自分のものにしたい、そう言うものを扱いたいと
思ったのだ。
ではどうやって? そう言う芸術作品などを資金手薄な自分が集めてこられるのだろう?
わたくしはうまく行く自信がなかったが、多少の心得があった、「書」の方を
扱ってみようと思った。
書をお軸にして、何本かつるす、そして水墨画もあれば、展示したい。

わたくしは画廊の中を自分で改装した。ホームセンターに行って、
壁材(土壁風に仕上がるもの)と、細い竹材を買ってきて、壁を土壁風に
丹念に塗り、作りつけのガラス製のショーケースのアルミサッシの部分に
竹材をくっつけてちょっと和風の画廊に仕立てたのだ。
あとは壁に陶製の花入れを飾り、何気なく季節の花を生けたり、事務所部分に
通じる入り口に和風ののれんを掛けたり、照明は蛍光ランプと、白熱灯の両方を
取り付けて自然光に近くしたり、いろいろ考えて工夫して、実行するのは
とても楽しかった。


それから私は書画の蒐集に乗り出すことになった。

 

そのころのわたくしの活躍ぶり、それはいまのわたくしには全く見られないものだった。
わたくしは以前ご指導をたまわっていた書道の師範に、久しぶりにまずは約束をしてから
であるが、お会いしに行った。
その席でわたくしは、自分が最近画廊主になったこと、その画廊では書画を扱いたいこと、
扱うとすれば、いくら自分が若輩者で女性だからといって、手頃な値段で買える、
玄関先にでも掛けておけるような気軽なものではなくて、できれば見る人が、
ひいてはできることであれば、購入する人の心をとらえてはなさないような、
ちゃんとした本当の芸術作品を集めていきたいことを、誠意を込めて熱っぽく、
お話しさせていただいたのである。

先生は完全に度肝を抜かれた様子で、わたくしの話を聞いてくださった。
なんと荒唐無稽で夢のようなことをいう弟子よ、とあきれられたことであろう。
それでも先生は、たぶんわたくしの万分の一かの可能性を信じてくださったのであろうか?
わたくしに近々行われる予定の、書家展の案内書とそこに出展される予定の、
先生以外の大家と呼ばれる書家の方々に対する紹介状を、先生独特の美しい字で
書いてくださったのである。感激の極みであった。
その案内書と紹介状を大事に懐に抱いてその書家展に赴いたのは言うまでも
ないことであるが、先生のおかげで、そこで大きな成果を上げることができたのである。

先生は会場にいてくださって、その場で、自分の愛弟子が、しかも研鑽を重ねた
努力家の自分の女弟子が今度自立して画廊を開くことになったので、最初はなかなか
売れて売れて困る、ということもないであろうが、協力してやってほしい、と
ほかの方々に口添えしてくださったおかげで、思いの外、お偉い先生方が、
わたくしに助け船を出してくださることになったのである。

そのことをきっかけに、わたくしは順調に開店に向けて、船出することができたのである。
先生方はわたくしの画廊のために、それぞれの方が何点かずつ、提供して下さり、
わたくしはそれぞれを自前の桐の箱に収めて、目録を作った。手元に置くものと、
来店された方が必要とされた場合のカタログ、ほかにもいろいろ経理上の書類などを
準備するのに次第に、わたくしの仕事は忙しさを増していった。

わたくしは開店記念として、先生を含めた、老練な書家の方々の展覧会を催させて
いただくことにした。といっても、やっと借りられた小さな画廊である。
それぞれの先生のお軸を一点ずつ展示させていただくと、たちまちガラスケースの中は
いっぱいになってしまった。残りはカタログを見てご要望があった場合に、
出させていただくことにして、案内状を作って、先生方のお弟子さんたちに
配っていただいたり、ほかの画廊に置かせていただいたりして、開店の準備は
着々と整っていった。

わたくしはどれほど毎日が生き生きとしてすばらしかったであろうか?
なんと充実して黄金のような日々であっただろうか?
 何という幸運な人間であろうか?わたくしはかつてないほどに充実した、
感謝に満ちた日々を送っていた。

さて開店の日がやってきた。

 

 

初めての書展。わたくしは朝から、道に面したショーケースに一級品のお軸を掛けたり、
花を生けたりして来客を待った。ぽつんぽつんと、それでもあまりとぎれることもなく、
お客が来てくれ、わたくしは割と忙しく過ごすことになった。驚いたことに
先生の作品も、ほかの書家の方の作品も、それなりに、期間を通してかなり
買っていただくことができた。


いろいろな客層の方が来られ、それぞれに気に入った作品を手にとって、
しばし考えた上で買って行かれる。わたくしはその初めての経験を大いに感動して、
受け止めた・・・。
わたくしはその後も周囲の方たちの助けを得て、いろいろな企画を実行させていく
ことができた。初めての企画も、かなりの成功だったと言えるだろうけど、
女流書家展、若手書家展、抽象書家展、植物画展、今思い出すだけでも
わくわくするような企画を催しては、成功を収めていったのである。
これらの企画は短期間で終わらせるのではなく、結構長く続けたりしたが、
展示品を入れ替えたり、それなりに宣伝することで、来訪してくれる客は、
引きを切らなかった。そのうち女性向けの雑誌で取り上げられたり、
NHKで紹介される、というような幸運が重なって、私は当初思いも掛けなかったような
成功を勝ち取っていったのである。

といっても、わたくしがやっていたことは本当に地道な活動ばかりなのである。
ただ周りの人々に恵まれていたのだろう。今から思うとわたくしはそういう幸運に
気づかされる。若さ故、無知故、気づかなかったこともたくさんあるのであるが。
わたくしの画廊のためにしばしば書を書いてくださり、そしてその書がとても
人気が高い、という偉い書家の方がいらして、わたくしの画廊にもしばしば、
忙しい中足を運んで下さっていた。その先生がいらしてくださると、
画廊の雰囲気がぱっと変わる。その場にいるお客もみな、先生の存在感や、
その先生の持つ温かい空気に包まれて、ゆったりとした気分になる。
わたくしは先生がいらっしゃると、お茶を淹れるのもとても丁寧になる。
いそいそとお出しする。皆が話しを聞きたくなる・・・。

そういう先生だから、書かれる書も実にスケールが大きい。
先生の書はわたくしのちっぽけな画廊に突然現れる懐大きい母なる大地のような、
すばらしい書である。
先生は来られると、私にいろいろな話をされる。季節の花の話、いつか行かれた
モンゴルの話、そして書の話。私の女性的な部分について語られることも
あるのであるが、それが少しもいやらしかったり、傷つけるようなこともない。
一度こうおっしゃったことがある。

「あなたは何かこう、ツワブキの花に似ているね。地味だけれど、はんなりしていて。
はんなりしているけれど、たおやかではなくてしっかりしている。
ツワブキの花を知っていますか?」
「ええ・・・。今年は咲くのが遅いみたいですわね。最近やっとちらほら見ます」
「そうだねえ。今年は花の咲き具合が早すぎたり、遅すぎたり、少し変だね」
「咲いたらとってもきれいなんですけどねぇ。どうしたのでしょうね」

またあるとき先生はこうもおっしゃった。

「あなたはね、そういうかっちりしたスーツを着ていると、かえって幼く見えるよ。
そしたら悪い客がいて、足元を見たりすると困るから、着物を着てごらん。
あなたは着物がよく似合うと思う」

「でも先生、わたくし着物など着られませんわ。それにどういうものを
選んでいいかもわかりませんのよ。母にちゃんと教わっておけばよかったと
思いますわ」

「今度私が見立ててあげるよ。着方や選び方についてはに私の家内が教えられると
思うから、今度遊びに来なさい」

そういうわけでわたくしはご厚意に甘えて、ご夫妻に着物のことをいろいろ
教わるようになった。先生の奥様もとてもすてきな方で、わたくしはとても幸せに感じた。
そのころのわたくしはとても裕福で、先生にいろいろ教わりながら着物をいろいろ
買っていくのは、何かとても楽しいことに感じられた。今まではそんなことに
お金を使ったことがなかったのである。

先生がおっしゃっていた、ツワブキのような自分を引き立たせるような、
知的で少し古典的な柄の着物を着て背筋を伸ばしてお客様を笑顔で迎える・・・。
わたくしは少し自分に酔いしれていたかもしれない。
画廊は絶好調で、わたくしはその女主人として、毎日めくるめくような多忙で
幸せなな日々を送っていた。



ある真冬のとても寒い日のことである。私の元に先生からのお手紙が来た。
和紙に丁寧に書かれたその字はいつもの先生らしい生命力あふれた調子はあまりなく、
風邪をこじらせて入院して、しばらくお会いできない、というような内容のことが
書いてあった。

わたくしの胸は動悸を打ち、すぐにでも駆けつけなければ、と思ったのであるが、
入院先の病院については書いてなく、そしてご自宅のお電話を差し上げても
いつもご不在で、また先生のお知り合いの方にお問い合わせしてもどなたも
知らないとおっしゃるばかりで、わたくしは四方八方手を尽くしたがわからず
不安な日を送ることになった。


 

 

先生と奥様の行方はどうやってもわからなかった。わたくしはその頃仕事が
忙しくなってきて、いろいろやることがあったので、あまりちゃんと探しもしなかった、
というのが正解かもしれない。不誠実かもしれないが、わたくしの仕事は、
今や乗りに乗っていて、あまり暇がなかった。 画軸を入れ替えたり、
花を生け直したり、掃除したり、お客様をお迎えしたり、帳簿を付けたり、
定休日にはほかの書家の先生方のお宅をおじゃましたり、煩雑な用事から約束事まで、
やることが山積していたのである。さらにその合間には新たに見つけた楽しみである、
着物を買いに呉服店を訪れたり、茶陶や花器を見に陶器店に行ったりして、
なかなか充実した毎日を送っていた。

そうはいってもわたくしは先生はどうしてらっしゃるだろうか、ととても案じ、
先生にお会いしたいものだと、心から思ってはいたのだ。だがすでに探す手段を失い、
途方に暮れ、次第にあきらめつつあった、というのが正直なところで、
心の隅に何かしこりを抱えつつも、忙しさに紛らわせて、忘れていったのかもしれない。

それから何年たっただろうか。わたくしはある日、もうすぐ冬になりつつある
11月の終わりの夕暮れ時のことだったが、その日来たばかりの夕刊を手にした。
そして何気なくふと見た記事に目が留まった。

『心中? 男女二人の白骨死体発見』

その記事を読んでみると、大阪北部にある箕面(みのお)市の、紅葉が鮮やかで
美しいと言う某山中で、60年配と見られる男女の白骨化した遺体が発見されたとのこと。
死後5〜6年を経過していると見られるらしい。遺書はないが、身につけていた
腐敗した衣類の中から名刺が出てきた結果、まだはっきりしたことはわからないが、
どうも数年前に行方不明になって、親族や知り合いから捜索願いが出されていた、
著名な書家のK氏とその妻ではないかと思われる・・・。

わたくしは新聞を思わず取り落とした。K氏・・・。それはあの、わたくしが
探し続けた、先生ではないか。あれほど探したのに見つからなかった先生は、
病院に風邪をこじらせて入院しているから、とおっしゃっていたはずの先生は、
実は亡くなっていたのだ。わたくしの知らないところで、先生は知らぬ間に、
しかも心中という形で、奥様と亡くなっていたのだ。
・・・わたくしは、慟哭した。涙は次から次へとあふれ出て、嗚咽は止められず、
どこからこれほどの涙があふれてきて、止めることができないのか、
初めてわたくしは自分でもどうすることもできず、ただ泣いて泣いて泣いた・・・。

先生とわたくしは親しくしていただいていたのではなかったのか。
それほど・・・お手紙で本当のことではないことをおっしゃって、
隠さなければならないようなことがあったのか・・・。先生は何か深い悩みを、
心の闇として抱えてらっしゃったのか? 次から次へと涙があふれたが、
疑問もつきることなく、沸いて出た。
わたくしは、通りに面したショーケースにちょうど生けていた、ツワブキを
思わずつかんで放り捨ててしまった。

つまるところ、わたくしは先生にとっては何者でもなかった、ということが
心に突き刺さって、つらかった。これほどお慕いして、尊敬申し上げたのに、
結局わたくしはちっぽけな詰まらぬ人間で、あれほどにこにこしてわたくしを
かわいがってくださっていたのは、ただの厚意だったのか?
わたくしは先生の自死しなければならなかったほどの苦しい事情に思いを
はせることもなく、ただ自分の苦しみや恨みに心がいっぱいになっていた。
そしてその上、何が先生にそうさせたか、については、連日女性向けの
テレビ番組で物議を醸していたが、わたくしはそこから逃げ回らねば
ならなければならなかっていた。

というのも、心中したのは、わたくしが先生の愛人で、その生で先生ご夫妻が
心中された、というのが世間一般の意見だったからである。
わたくしはもちろん愛人ではなかった。だが着物は見立ててもらったり、先生のお宅を
訪問したことが、一般の誤解を招くに十分な行動だった、ということである。
お宅を訪問したのは、先生の奥様に着付けを習うためだったのに、先生をよこせ、と
怒鳴り込んだことになっているから、マスコミというのは恐ろしいものである。

店を開くことも、もうできず、お軸はそれぞれの先生方にお返しし、わたくしは
今まで住んでいたマンションも店も売り、もっと小さな住まいに移り蟄居した。
しばらくすると、マスコミもわたくしのことを忘れるだろう。
それまでわたくしは誰の目にも留まらぬように、密やかに生きなければならない・・・
というほど、もはや生に執着も感じなかったのであるが。

それからまた何年かたった。わたくしは相変わらずの苦しく孤独な生活を送っていた。
わたくしは誰とも会わず、自分の蓄えをもとにこじんまりと生きていた。
わたくしはある日、大阪の町を久しぶりに何も隠さずに歩いていた。
どうしてそうしようと思ったのかわからない。
ただ、春が来て、久しぶりの暖かい日、少しほこりっぽいけれど、
風も少しまだ冷たいけれど、厚いコートを脱いで、少し軽やかな服装で
外に出たくなる、そんな衝動に駆られるような、木の芽時、というのだろうか?
ざわざわした気分でわたくしは外に出た。

わたくしは御堂筋をずっと歩いた。ミナミからキタに向かって、てくてくと、歩いた。
人はわたくしの方など見もしない。関心もない。わたくしもおどおどしたりもしない。
わたくしはふとショーウィンドウをのぞいた。ショーウィンドウの奥は
鏡になっていて、わたくしが写っていた。
何年ぶりだろうか?こうやって自分を見つめるのは。
そしてそこにはまるで知らない自分が写っているような気がした。

そこに写っていたのは、ひからびたような中年女。ぱさぱさの白髪交じりの髪。
短く、顔を暗く見せるようなおかっぱ頭。つやのない、乾いた黄色い顔の色。
何の光も宿っていない、つまらなさそうな目。やせて何の魅力もない、体。
口角の下がった、いかにも不満そうな口元。

なんて変わり果てたことだろう? これは不幸な女の見本か?
・・・だがそこでゆるい春風が背中に吹き付けた。

ここで終わりか?おまえ? これであきらめるか?まだ貯金も残っている。
でも一生暮らせるほどではないぜ? どうする??
春風はわたくしの背中を押した。
わたくしはそう、何年ぶりだろうか?
あの日以来、初めてにっこりとほほえんだ。


どうしよう??わたくしはこれから。
考える時間はいくらでもある。
まずは好きな絵でも見ようか?
わたくしはキタにある、ある有名な画廊に重いドアを押し開けて入っていった。

若い女性のかろやかな声がした。
「いらっしゃいませ」

 


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