photo by geko


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沈黙は随分長く続いた。老人の顔には疲労が色濃く見えた。
やがて意を決したように語り始めた。

「老僧は絵の中に初めて入り込みました。長く旅の伴侶としてきた絵です。
敬愛する自分の兄が血迷うて入り込み、青年期から死期まで過ごしつづけた 禍根の押し絵です。

いかなる思いを抱いていたのでしょうか。絵の中で兄は亡くなり既に土塊と変わり果て、

女は寂しさと悲しみの念に身も心も苛まれながら、それなのにいまだ色香は衰える事を知らず、
ただ一人、芝居の情景の中で佇んでいるのでした。

骨董屋が絵を見ていると、老僧は女に近づき、何事かを語りかけているかのように見えました。
女はやがて血相を変えて首を横に振りながら後ずさりを
始めました。
それはそれは不思議な光景でした。
なぜなら女は人の手で作られた人形のはずですから。

そうは言っても、そもそもその女の人形は、まるで血脈の通う生ける人間であるかのように、
絵の中で、生き生きとした妖艶な美を放っていたのですから、特に可思議なことではいのかも
しれません。
答えはこの押し絵を作った人間ただ一人のの心の中にあるのかもしれませんが。

老僧は数珠を手にして繰りながら、女に語りかけていました。
女の目からは涙がぽろぽろと・・・その美しい頬を濡らしていました。
やがて女は首を縦に振りました。
最早その瞳は憂いをなくし、ただ何か自分の運命に対して毅然と立ち向かうことを
決心したかのように、キラキラと輝いているのでした。
女の美しい濡れたような口元が少し開き、何かを囁きました。

そして老僧が女に歩み寄り・・・。
骨董屋は愕然としました。
絵の中で、何としたことか老僧が・・・いつの間にか手にしていた小刀を振りかざしたかと思うと
その刹那、女を・・・殺めたのでした。
それは絵の中の出来事で、余りにも急な出来事で、如何ともせん、骨董屋には止める事は
できなかったと
いいます。
女は崩れ折り、それっきり息絶えました。
丁度老僧の兄が亡くなり土塊と帰した場所、少しこんもりと盛り上がって小さな塚となっていた
場所の丁度真ん前で、まるでその塚を抱くように
女は倒れ伏したのだそうです。

凄まじい背筋が凍るような一瞬が過ぎると、老僧はげっそりと疲れ果てたように座り込みました。
老僧の頬にも涙が伝っておりました。



やがて、老僧は気を取り直し、それからは毎日二人のために作った小塚・・・卒塔婆の立つ墓前で
読経する姿が見えました。
そして幾月かの後、老僧も寿命がつきたのでしょう、ある朝見ると動かなくなっていたのです。

老僧は、長い間孤独に・・・ただ兄達に美しい風景を見せてやる為に旅を続けてきました。
そして死ぬ時もただ一人、兄の愛しい人を殺めたという恐ろしい大罪を被り、 墓を作り弔う者もなく、
孤独に亡くなっていきました。

全ては覚悟の上だったのでしょう。
彼は一体何をそれほどまでに大切に思い、愛していたのでしょうか。青春のほとんど全ての時を、
ただ兄とその愛した人の為に尽くして死んでしまって。


骨董屋はその押絵を私のところに持ち込みました。
私は先ほど申し上げましたように、奇怪でおどろおどろしい不思議な骨董を集めるのが好きな、
少々悪趣味な数寄者だと、
出入りの骨董屋達には思われていました。
それだからこそ、その骨董屋には私がそれを手にした途端、手放さなくなるだろうという事も
既にお見通しだったのです。
その骨董屋はそれを私に見せると、苦渋の表情を作り、勿体ぶって如何にも物惜しげに
振舞いながらも、
私にその押絵の不気味で不思議な経歴を語り、私が手を出さずには
おれなくなるように
仕向けました。

骨董屋の話に耳を傾けながら、私は魅入られたようにその押絵を見つめていました。


不思議な押絵でした。謂れを聞いていなければ絶対に買いはしなかったでしょう。
何もかも古びて薄汚れていました。以前は 浮世絵によくある極端な遠近図法を取り入れて
芝居小屋の背景が描かれていた所は既に
ぼろぼろに絵の具が剥がれ落ち、打ち捨てられた
あばら家のようでした。

そしてその芝居小屋の脇の風景の部分には二つの卒塔婆の立つ小塚があるのみでした。


ただそれだけでした。

私はそこに篭められた3人の男女の強くて深い情念に強く惹かれたのです。

そして乱歩が創造した空想上の話だと思っていた事が、実は現実の出来事であって
それを今自分が目の当たりにしている、ということに震えるほどの感動を覚えたのです。
この押し絵を手に入れずして、誰が好事家と言えるだろうか。
いまだかつてないほどの興奮を覚え、私は骨董屋に言われるがままの値段で、
ほとんど夢遊状態と言ってもいいほどの心持ちでそれを手に入れたのです。

そしてかつてないほどに、それは家の中に暗い影を落としたのでした。


妻は私の押し絵を憎みました。古ぼけて荒涼とした、卒塔婆だけが冴え冴えと新しい、
人心にただ徒に恐怖心を煽るだけの薄気味悪い押絵・・・いえ女は死んで埋められたのだから、

それはもう押し絵ですらない、板絵のようなものに夫が現を抜かしているのです。

目が飛び出るほどの大金を支払った挙句に、私は骨董品ばかりを集めた展示室に閉じ篭り、
家業もそっちのけに昼も夜もその板絵を見て法悦に浸っていました。
魔に憑りつかれていたと言うのでしょうか。
私は妻や番頭の正しい声に耳を傾ける事を
全くしませんでした。

ふと何かの拍子に、私はあるとき辺りの静けさに眼が醒めたように気が付きました。
誰の声もせぬ、何の音もせぬ、全くの静寂が辺りを支配していました。
部屋を見渡すと、そこには押し絵と私しかなかったのです。
今まで集めた種々の骨董品を全て置いて展示していた筈の室内は丸っきりの空っぽでした。
一体どうしたと言うのでしょうか。
私はふらふらと外にさ迷い出ました。

そこにも何もなかったのです。
家中空っぽでした。
まるで押し絵の中の芝居小屋のように、荒れ果て全てのものがなくなっておりました。
部屋に戻ると、入り口の所に茶色に変色した手紙が文鎮代わりの小石で重石をして
置いてありました。

先ほどは慌てていたのでその存在に気が付かなかったのです。
そこには番頭の字で、私があの下らぬ板絵に放心している間に店は同業の店に奪われ、
働いていた者は番頭以下全て失職した事、私が集めていた骨董は二束三文で売り払い、
今までの賃金として皆に支払った事、娘は妻の里に一人ぼっちで返され、妻はその店に愛妾として
連れて行かれてしまった事。
これからどうしていいか分からぬが、仕方がないので郷里に帰る事にした・・・
そう言ったことが恨みを篭めてしたためられていました。


私は全てを失ったのです。



老人は深いため息をついた。

私はそれからはずっと・・・押絵と共にあてどもない放浪の旅を続けています。
その旅もどうやら終わりに近づいてきたようです。
長い話をお聞かせして申し訳なかったことです。
あなたはこの話を頭がおかしくなってしまった老人の戯言、嘘八百として お聞きになられたでしょうか。
それとも。
それとも不可思議で夢現とも定かでないこの話を、不幸な男女の身上話と聞いて下さったでしょうか。



やがて軋むようにがたがたと揺れながら古びた列車が小さな駅に入っていった。
列車が止まると幾人かの乗客が座席を立った。
誰かが扉を手動で開けると他の乗客とともに降りていった。

ふと気が付くと、あの老人はどこにもいなかった。
まるで煙のように、私の心に不思議な陰影を残して消えてしまったのだった。



                        


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