2

私が尋ねてしばらく、重苦しい沈黙がありました。骨董屋はなかなか話そうとはしません。
何度か催促してやっと骨董屋は切り出しましたが、それはまた途轍もなく不思議な 話だったのです。

骨董屋が私の所を来訪する数ヶ月前の事です。
骨董屋の所に異様な風体の老人が訪ねてきたと言うのです。
老人は骨董屋に大きな風呂敷包みを持参していました。
それはこれ、あなたがご覧になっておられる通りのものです。

背筋をきりっと伸ばして一見若そうに見えるのに、深く落ち窪んだ眼窩とくっきりと刻み込まれた
顔中の皺は、他者が想像しうる以上の年齢を重ねてきたことを物語っており、
疲れがどっぷりと骨の髄まで染み込んでいるように見えました。
やはり今の私と同じように長い年月旅だけをして過ごしてきたのです。

老人はこの絵の来歴を骨董屋に語り、そしてその絵を預けたがりました。
二束三文でも売ろうとは思わない。ただ預けたい、そう言ったそうです。
そしてただひとつだけ頼みがある。



その「頼み」をお話しする前に、この絵の来歴をあなたに語らねばなりませんでしょう。
その老人の持参した絵というのは、古ぼけた一枚の押絵でした。
作られてから何十年も経ち、所々すすけて破れている部分さえあるつまらない 押絵でした。
ああ、あの頃でしたらまた話は違っていたでしょう。
これはある恋の物語です。
一途で純粋な青年の物語なのです。
あなたは・・・若い頃にでも江戸川乱歩の小説など読まれた事はないでしょうか?
若者なら誰でもいっとき憧れる、現実よりは夢幻に近い謎めいて不思議でそして美しい、
また時には猟奇的でおどろおどろしい乱歩の世界です。


老人の語りは次第に熱を帯びてきた。

そうですか。あなたも乱歩の文学に耽溺した時がおありでしたか。
それでは「押絵と旅する男」の話はご存知ですか?
おお、それは良かった。この話をご存知でないと話は進みませんから。

少し内容を思い出していただけますか?
主人公である青年の兄が、心の病に罹るほどに恋焦がれた女性はなんと、
奇術小屋に掲げられた一枚の押絵の中の八百屋お七でした。
その女性に恋するあまり、主人公の兄はその頃彼女を一目見るためだけに、
当時「浅草十二階」と言われた高い塔に登って遠眼鏡を覗きこむだけの毎日を送っていました。
そしてその狂気に満ちた毎日の為に、憔悴しきっていたのです。


余りにも恋に溺れたが為にとうとう持っていた西洋の遠眼鏡を使って押絵の中に入り込み、
恋する女性と
共に絵の中で生きることを選ぶる、とい不思議な恋の物語でした。
覚えていらっしゃるでしょうか。
あの話の中で、押絵は実に生き生きと描写されています。
極度の遠近法を持って描写された、粗雑な芝居小屋の背景と、それに対して 妙に生気に満ち
巧緻を極めた二人の人物像の描写の対比。

まるで本当に生きているかのような、名状し難い毒々しさと色気とをもつお七。

主人公は老人から手渡された随分古い異様な形のプリズム双眼鏡を手に取り
覗き込みます。

絶対に逆さから覗かないよう注意を受けて押絵をたのですが、
そのレンズの向こうには先ほど申し上げたような、生気と色気にみちた若い女の姿と、
傍らには古風な洋装の皺だらけの老人が寄り添っている姿があったのです。
押絵の中の老人の顔は苦悶と恐怖に満ちていました。






さて、と老人は話を切り替えた。
私はごくりと唾を飲み込んだ。

そろそろ本題に入らねばなりませんな。骨董屋の所に私のような老人が
訪ねてきて、そしてその老人がもっていた押絵がどんな押絵だったのかと 言う事、
それについての説明に入らねばなりません。


その押絵を持ってきた老人は手に数珠を巻きつけて僧服を身に着けた、
枯れ木のように痩せた虚無僧のような風体の老僧でした。
苦渋に満ちた表情で、骨董屋に押絵について低く小さな声で語ったと言うことです。
その話とは・・・。

その老僧は驚いたことに、かの押絵に入ってしまった青年の弟だったのです。
彼が押絵と共に旅を続けるうちに、押絵の中でいつしか兄も老いさらばえ、
しまいには当然の事とはいえ
亡くなってしまったのです。
弟は嘆き悲しみました。もちろん絵の中の女もそうでした。

相変わらず瑞々しく色気のある美しい女でしたが、 その愛する者を失った嘆きようは
只ならぬものがありました。

絵の中ではもういくら老いたとはいえ寄り添って愛してくれる男性もなく、
独りぼっちになった悲しみは愛人を失った悲しみを凌駕するほどでもないが、
耐え難いほどの辛苦を女にもたらしたのでした。
絵の中の女の様子を見て、そうした心情を察した老僧は・・・いえその頃はまだ
僧ではなかったのですが・・・一つの決心をしました。
旅の途中でふと見かけた、草庵といっても良いほどの寂れた古寺に立ち寄り、
寺の住職に出家したい旨願い出たのです。もちろん、住職には詳しい事情をあらいざらい
話した上でのことでした。

古寺の住職はかつて聞いたこともないような余りに奇怪な話に驚きましたが
押絵を見て納得したのだそうです。
既に老身、修行は大変辛かったのですが、長年旅を共にして親身に思う押絵の中の女の
悲しむ姿を見るにつけ、いかなる厳しい修行も耐え忍んだのだそうです。

やがて大変な努力が実り、老僧は住職に再び旅に出ることを、そして押絵の中で死んだ
兄の為に読経することをも許されたのだそうです。

老僧は住職に感謝し、別れを惜しみつつも再び旅に出ました。

旅に出たといっても、もう今までのように長く続けることは出来ませんでした。。
老僧はすでにかなり老いて、自分の死期を悟っていたからです。
やがて老僧は遠い親戚にあたる、先ほど申し上げました骨董屋の戸を叩きました。
そして骨董屋に自分が持っていた少しばかりの金や金で出来た携帯時計などを差し出して
頼みごとをしました。
この押絵の女の為に読経したいので遠眼鏡を逆さから 私に向けて覗いて欲しい、
それが老僧の願ったことでした。


老僧はなぜか手に、木の卒塔婆と思しきものを手にしていました。
骨董屋はそれほど深くも考えずに請け合い、遠眼鏡をその老僧に向けて覗きました。
するとどうした事でしょう。
老僧はみるみるうちに小さくなり見えなくなったかと思うと、 あっという間に押絵の中に入って
しまったのです。

骨董屋は腰を抜かすほど驚きました。
今まで不思議で奇怪な事物を多々手にし、扱っていた彼ですが、このような事はいくら何でも
目にしたことがなかったからです。


老人はげっそりと疲れたように一息ついた。
もう随分長く話している。私は彼が話を再開するのを少し待つ事にした。

>next
>toppage



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送