ある男が、長年経営してきた会社を後継者に譲り、引退する事にした。
引退すると言うにはまだ少し早い決断であるように周囲には思われたが、
男は周囲の思惑や意見をいちいち気にしたりはしなかった。
彼には長年の夢があったのだ。

その夢をかなえるために、ただそれだけの為に、長年骨身を惜しまず 懸命に働いてきたのだ。
小規模とは言え会社の経営状態は安定しており、顧客達との良好な関係も 幸いして
毎年多くの利益を上げており、その結果男にはある程度の財産があった。

何一つ無駄遣いせず、せっせと貯蓄してきたのだ。
また、この夢をかなえるために、数ある縁談を袖にしてきた男だった。
懇ろになった女がいなかったわけではない。人生をともに歩みたいと思った
女もいなかったわけではない。
ただ妻子を養ったが為に夢がついえるのが嫌だったのだ。
経営者としても人間としても大変魅力的な人物で、多くの人間に慕われては いたものの、
謎めいた部分も無きにしも非ずの男だった。


さて、男は引退すると早速、夢の実現に向けて行動を開始した。
夢を完璧なものにするために、2年の年月をかけた。
計画のほぼ八割方は頭の中でできていた。実現するには自分ひとりでは できなかった。
優秀な建築家と専門業者とを必要としたのだった。


北方の途方もない原野に彼の夢の別荘が完成した時、深い満足のため息を ついたのは、
彼とその夢を実現させるべく設計した建築家の二人だけだった。

建築家はその芸術性の高い、原野におけるモニュメントとしての役割を果たすであろう
不思議なデザインの建物をみて、深く満足した。
男ははるか昔からの夢が具現して眼前に聳え立っているのを見て、深く満足した。

北方の地、ほかに誰も住む者もいない広大な原野。
そこに人の手が加えられたのだった。どのようにして建築許可が出たのかは分らない。
だが静かな変化が起こったのは確かだった。
自然を汚染せぬよう、最先端の技術を持って処理する施設を併設していたにもかかわらず、
周囲の土も土の中の微生物も、さわさわと風に揺れる小さな地草も、潅木の葉も、
水辺に集まってくる鳥も…全てが、この忽然と現れた異風な存在に戸惑っているかのように、
じりじりとまるで後ずさりしているかのように、後退していったのだった。
それはわずかな範囲だったのだけれども。

建物は、まるで透明な鉛筆のキャップを伏せたかのような形をしていた。
一階部分は頑丈な鉄筋コンクリート造りであるものの、その上には鉄筋の四本の柱を 支えとして、
特別製のガラスの円筒が天に向かって突き出していた。

天井部分はドーム状になっており、これも柱が中心部分で交叉している以外、 視野を覆う物は
何も無く、この建物は原野を全方位見晴るかす事が出来るように
造られていた。
鉄筋コンクリートに覆われた一階部分には全ての機械設備、生活用水の処理設備、
風力発電装置、空調設備、キッチンや洗面所、寝室などがあった。
一階から二階へ移る階段を上るとそこは円形の部屋で、小さな円テーブルと重厚感のある
革張りの大層な安楽椅子が置いてあった。
二階の一室ではあるが、この部屋は丸ごとエレベータになっていた。
男は自分の行きたい階層にボタン一つで部屋ごと移動できるのだ。
5メートル、10メートル、15メートル、……。
20メートル、15メートル、10メートル、5メートル……。

透明な建物に、透明な部屋。部屋はするすると滑らかに最上部まで上がっていく。
男は刻々と変化していく自然の営みを、自分の思うままに高くして地平線の彼方を
眺めたり、低くして小さな生き物達を眺める事ができるのだった。

深い霧に包まれ、しっとりと濡れそぼったような朝まだき。
現世(うつつよ)は夢幻(ゆめまぼろし)かと言うほどに靄って、明確な視界を得られる事もない。
そこに差し込んできた日の光が、カーテンを開けるように霧を払いのけていく。
鳥たちのさえずり。その姿が見えないほどに高い空から聞こえてくる。

湿地帯に数え切れないほどに散らばる大小さまざまの、鏡面のような湖沼が太陽の 光を
浴びてきらきらと輝く。

水辺に集まってくる数え切れないほどの無数の生き物達。
それが一つの巨大な鳥であるかのように群れをなし美しい編隊を形作って 右に左に
旋回しながら飛ぶ水鳥達。

水面をすいすい泳いでいく、小さな虫達。
水辺からは少し離れた草むらの中の臆病な毛むくじゃらの小動物達。
水の中をすいすいと泳ぐ小さな魚達。

長い厳寒の冬がやっと終わり、草木の萌え出る春の喜びを味わう時。
湿った風が吹き、短い暑い夏が訪れを感じる時。
朝夕が冷え込み始め、次第に釣瓶落としに日が暮れて、秋が深まっていく時。
長い長い冬の到来を感じさせる、最初の吹雪の夜。
四季のダイナミックで生命力に満ちた変化と、四季折々の植物達が彼を和ませる。

風。
春の温かい柔らかい、そっと頬を撫でていくような、風。
嵐の前触れの暗い空を連れてくる風。

夜。
夜ともなれば360度に展開する壮大な宇宙から送られてくる、摩訶不思議で
この上なく美しい天界の模様を心行くまで眺める事が出来る。

嵐の夜。
ダイナミックでゴージャスな全天型のショーは雷(いかずち)が演出家。
強風が建物を揺らす。
稲光が建物を切り裂くように光降る。

吹雪の夜。
四方から真っ白い怪物に建物を抱きかかえられているかのような恐怖。
視界は全くなし。何も見えないしどこからも自分は見えない。
透明なガラスの中の透明な自分。

全てはかくも美しく、壮大で、時には怒りに満ちた自然の営み。

男は今まで人間に生み出されたどんな素晴らしい音楽よりも、どんな 素晴らしい絵画よりも、
彫刻よりも、演劇よりも、……何よりも自然が一番美しいと思う。
そしてその只中に自分がただ一人存在する事に陶酔し、喜悦するのだった。

これこそが男が長年抱いてきた夢なのだった。
そしてこのような夢を想像し、創造しえた自分の高い能力に対し、自画自賛の念を
抑える事が出来なかった。
今までこれほどまでにスケールの大きい想像力を持つ人間が史上いたであろうか?
否。
このような孤独な環境で喜びを持って生活を営んだ人間がいたであろうか?
否。
人間と言うものはチマチマと糊口を凌ぎ、群れをなして生活せざるを得ない弱い生き物だ。
是。
自分はその様な弱い人間ではない。
是。

彼は時折、安楽椅子に座ったまま、円テーブルにノートを開き、書付をする。
風景の美しさ。生き物たちのこと。四季折々の変化の事。
自分がどう感じたか。
時には下手なスケッチを描き入れることもある。

また時折、母親にテレビ電話を入れる。
母親を眼前にするたびに、母の老化の速さに驚いてしまうのだった。
くっきりと刻まれた深いしわと殆ど動く事の無い表情は、
静止画像を見ているかのようだ。
殆ど動かない母親の口がしわがれた低い声を押し出してくる。

「その別荘からはいつ帰ってくるんだい?そこが別荘なら、時々は 帰ってきても
いいはずだろう。お前に食料を届けるヘリに便乗して帰っておいで」


「お母さん、ここはとてもいい所なんですよ。日の出と共に起床し、
日没と共に就寝する。
健康的でとてもいい暮らしをしています。
帰るのを躊躇うくらいのいい所なんです」

「お前がなんて言われているか、知っているかい? 浦島太郎だよ。
まぁお前の代りに私がとっとと死んでしまいそうだけどね」

「ああ、そんな。今まで50年近い年月を必死になって働いてきたんですよ。
それこそ身を粉にして。世の為人の為、自分の事はお預けにして 重労働に励んで
まいりましたよ。今ここで少々休息を取って、何が
悪いんですか」

「たった一人のお前の肉親である母親は病気だよ」

「お母さん、お願いですから…もう少しだけ。そうだ!お母さん、こちらに いらっしゃいませんか?
天国のような素晴らしい場所ですよ。ここに
いらしているだけで、きっと病気も良くなられるはずです。
ベッドも用意できますし、いかがですか?本当にとてもいい所ですよ」

「まぁ別の天国にもう少しで行けるだろうし、よしとくよ。いい加減に目を お覚まし。
帰ってきて現実をよく見るんだね」


「現実?ああ、お母さん!私がお母さんに、どうやったらここの素晴らしさを私の拙い
言葉で
分っていただけるでしょうか。私は
本当に素晴らしい自然の有様をいつも目の当たりにしています。
自然の営みをじっと見ていると、人間の小さく浅はかな行いなど、ほんとに ちっぽけでつまらない
事のように思えてくるんです。天の神様もそう思って
おいでではないでしょうか?
私はなんだか神に近づいているような、清くて感謝に満ちた気持ちで一杯なのです。
お母さん、私は生まれ変わったのです。物やら人やらいろいろなしがらみに
がんじがらめになって、へとへとになって生きる事に疲れてしまっていた自分が、 こうやって
また生まれ変われたのです。

私は幸せな気分で一杯です。我が子の幸せを、共に喜んでは頂けないの でしょうか?」

「ああ、良かったね、お前。…お前は本当に子供のようだね。今に大変な事に
なるよ。
世間をよくご覧。私は一応お前に忠告したからね。さあもう…私は疲れたから
もう切るよ。じゃあ」

たいていこんな調子、母親を不機嫌にしたまま会話は終わるのだ。
母親は一人置いてけぼりにされて寂しいのだろうか?
病気と年齢のせいで我がままになっているのではないだろうか?
私は母が、最高級の医療を受けられるケアハウスで世話を受けられるように 取り計らっている。
そんな私の母を思う心を分ってもらう事は出来ないのだろうか。
まあいい。
いずれここに来れば、母も気が変わるだろう。
必ずや良い方に向かうだろう。

彼は不愉快な会話の事などすぐ忘れ、また書き物をしたり、外をぼんやりと 飽かず眺めて
過ごすのだった。


円テーブルの上には革張りの表装を施したノートや万年筆以外に、 彼がとても大切にしている
双眼鏡があった。

これがあれば、小さな動物達の胸が躍るようなシーンをつぶさに 見ることが出来る。
小さな雛や哺乳類の子供達の、愛らしい様子が
手にとるように見ることが出来るのだ。
時には遠くを飛んでいる鳥達の細かい動きを見ることもある。

二週間に一度、彼が注文を入れた商品を配達する為に、ヘリがやってくる。
ヘリは着地せずにかなり対地接近し、品物の包みを落としてからまた去っていく。
その時だけ、男は外に出る。荷物を拾い上げるとまたそそくさとガラスの塔の中に 戻っていく。
あまり頻繁に出て自然の中に入り込みたくないのだ。
彼にとっては彼が慈しむその対象をガラス越しに見ていた方が良い。
ガラス越しに神の気分を味わっているのだった。

ある日母親の方から電話がかかってきた。
珍しい事だった。いつもは男の方からご機嫌伺いに電話をかけるのだった。

「おお、お前。まだ帰ってこないのかい?あれからニュースとか新聞とか、何にも 見ていないのかい?」
「見ていませんよ、そんなもの。私のところにテレビなどはありませんから」
「インターネットは出来るんだろう?」
「一応は」

「でも見てないんだね?それにこの前お前に送った荷物に、新聞も入れて おいたはずだよ」

「ええ、まぁ、世間のニュースなど知らなくても不自由しませんからね」

「そうだろうとも、お前は神様気分を味わっているんだからね、地上の 下らない人間同士のごたごたなんぞ
興味もないんだろうねえ」


「そうですとも、お母さん。全ては些細なちっぽけなことですよ。この世で 私だけがそれを知っているの
かもしれませんね」


母親がああ!と言うしわがれた悲鳴を上げた。そして暫しの沈黙が訪れた。

「お母さん?どうなさったんです?お母さん?お母さん?」

「お前…最後に言っておくけれどね、最後だよ、もう。ニュースをご覧。 ああもうそれも遅いかもしれない。
それじゃあさようなら。お前と一緒に最後のときを
過ごしたかったよ」

「お母さん!」

画像は酷く乱れていた。母親の声も異常に聞き取りにくかった。
そして完璧な沈黙が訪れた。

何か寒気のようなものを感じてエレベータを一階まで下ろすと、ノート型
パソコンを取り出して接続した。
暫く使っていなかったのと、手が震えてなかなか上手く使えなかった。
やっと彼がインターネットに繋げられたのは何時間も経ってからだった。

彼はニュースを見た。
それはニュースの残骸だった。
そしてそのニュースもすぐに見られなくなった。

彼は衝撃を受けて、エレベータを動かした。
透明な部屋はすーっと上がって行った。

一番高いところに。頭上にすぐドームがあるところまで。
彼の手は震えている。
震えた手が双眼鏡を握り締め、目にあてがった。

遠くを見る。
彼方を見晴るかす。
だが視界は酷く悪かった。

空は濁り赤みを帯びていた。
灰色がかった青い空は濁った薄気味悪い色をしていた。
太陽は隠れ、濁った鈍色の雲の向こうでようやく不気味に光っているようだった。

強い風が吹き付けていた。
その不気味な色の空の方向から。

風が…
風が…


楽園を死の園へと変えていく。
徐々に、徐々に。
風が死の灰を運んでくる。

このガラスのモニュメントを残して、全てが死んでいく。
広い広い湿原の、無数に広がる滋味豊かな湖沼とそこに群がる
無数の生物達。

高波が押し寄せて覆うように、生命が枯れていく。
遠くはるかな彼方から、死が徐々にやってくる。

人間達の醜い業によって、生命が失われていく。

母親もかつての友人達も、知り合いも、皆苦しみながら死んだのだろうか。
焼かれて。猛毒の空気に巻かれて。
最後の母親の電話に思いを馳せる。

彼の楽園が死の楽園に変わっていくのを彼は見ている。
目をそらす事も出来ずに。

エレベータはもはや動かない。
高い塔の最上階で、彼ももはや動かない。
ガラスの塔の外側と内側。
密閉された建物のそこかしこからじわじわ入り込んでくる、毒された空気。


彼が見た最後の夢。
小さいけれど緑豊かな庭で、両親に見守られて遊んでいる自分。
両親が微笑んでいる。自分は春風を頬に受けて、大笑いしている。
暖かで光に満ちた夢。


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