FISH DREAM



 まだ朝早い時間だというのに、太陽はカンカンに輝き、とても暑かった。
俺は駅から家まで30分のほとんど坂ばかりの長い道のりを歩いていた。
この近辺は急坂が多くて、本当に何にもない不便なところだ。
俺は頭が割れそうに痛くて疲れきっていて、ほとんど吐きそうになりながら
その急坂を登っていた。

ちょっと前に俺の愛車が事故で廃車になって・・・その購入資金を貯めようと
徹夜のアルバイトに励んでいるところで、今その帰りだった。
この辺は昔は山ばかりで、駅があったところは、以前は山の中の渓谷だった
そうだ。昔からこの辺に住んでいる友達は20年程前は岩魚や山女を釣りに
よく出かけたという。

さあもう一息、俺はちょっと気合を入れて坂道を曲がっていった。この辺は
まっすぐな道なんてほとんどない。都市計画なんてなかったんだよな、きっと。
道を曲がったそのときだった。俺の目にはとんでもない変なものが飛び込んできた。
寝不足と疲労?それとも暑さで?それとも世界が一夜にして狂った?
俺は目をこすった。でもそいつはそこにいた。


それは巨大なマグロだった。ちょっとした子鯨ぐらいありそうな。
そりゃ、俺だってマグロがでっかいことぐらい知ってる。解体してるところを
見たことがあるのだ。でもそれの大きさはまったく、ハンパじゃなかった。
道の端から端までデンと横たわっていたのだ。

 



俺は思わずへたり込みそうになった。やっと家の近くまでついたのに、なんで…。
こいつのせいで、家に戻れない。帰ろうと思ったらまたぐか、遠回りするか…
もしまたいで噛み付かれたら(そんなわけ、ないか)どうすんだよ。でもまてよ?
俺はちょっと思った。
こいつ、このまま置いておいてもすっごい邪魔だ。車だってくる。もし轢かれたりしたら、
このマグロも車も大変なことになるかも。それにこんな炎天下、すぐ腐りだすぜ?
おいおい、ヒクヒクしてるじゃん、生きてるんだよ、うわぁ〜、何とかしなきゃ!
死んじまうぜ!…きっと俺の脳みそは半分ワヤになっていたのだろう。
妙な仏心を出して、いつもだったら考えもしないような思考経路が働いて、
この徹夜明けでくたびれきった体に命令を出して、魚を救うべく、動かし始めたのだ。
それはものすごい力仕事だった。うへぇ…。ちっとも動かないじゃん。
…などとごちゃごちゃ考えながら、少しずつ魚を動かしていった。

ともかく道路の端の歩道の上の、ちょっと日陰になっているところに魚を連れて
いかなきゃ。
俺はとにかくものすごくがんばった。汗びっしょりだった。


 そのときである。魚がしゃべった(なんてこった)。
「ねえ・・・。もうちょっとそっとしてくださらない?あたくしの大事なうろこに
傷がついて
しまうわ。それはそれはいつも気を使ってきれいにしているのよ。」

「あら、びっくりなさっちゃって。この暑い中助けてくださってどうもありがとう。
あたくしももうすぐこの世とはお別れね…ってちょっと詩を作っていたのよ。
お聞きになりたい?
『忘れじの君…我は君を愛す…』」

「あのね、あんた。あんたの命にかかわるとヤバいから俺電話したいんだけど。
ちょっと待ってくれない?」
俺は長話の好きそうなマグロと見て、ちょっと口をはさんだ。

「あらまぁ失礼いたしましたわ。ちょっと静かにしておきますわね」

マグロがちょっとにっこりしたような気がした。俺はケータイを取り出して友達に
電話した。

「あのさぁ。おまえさ、ちょっと助けてくんない?え?今うちに帰ろうとしてたらさぁ、
なんでか大きなマグロが道に転がっててさぁ…ア!」
途中でブチっと切られたのだ。

次々電話をかけていったが、たいていそんな感じだった。たとえもう少し話を
聞いてくれたとしても
「おまえさ、疲れてるんだよ。早く帰って寝れば?」てなリアクションが必ず
返ってくるのだ。
こういうことになるのも俺が普段すごおおおく冷たいやつだからだ。
俺の脳裏をふとそんな気持ちが浮かんだ。
超薄情で、親のなきがらを平気でまたいで通るやつ、なんて言われてるぐらいだから。
俺は急に情けなくなった。

最後は、それほど親しくはなかったが、魚屋の息子でそれなりにツールもそろってるかと
思ったのでとりあえず電話した友人のところだった。
「道に大きなマグロ? へえ…大きさはどれくらい?へえ…見たことねえな。
ちょっと待ってろよ。面白れえから行ってやるよ」
ありがたい!俺はまじで感激した。捨てる神あれば、拾う神あり、とはこのことだ。

「あたくし、何とかなりそうですわね。ほっとしましたわ。もう、途中どうなるかと…」
マグロは少し顔色が悪いように思えた。無理もない。海水もない、こんな炎天下だ。
生きてしゃべっているほうが不思議なくらいだ。変わったマグロだなぁ…。

その後30分ぐらいしてその友人がやってきた。2tトラックに防水シートをビッチリ
敷き詰め、その中に海水が入っていると彼は言っていた。
どうやって調達したんだ?この辺海ねーぞ。
それはま、企業秘密ということで。彼はもともと寡黙なやつだった。さっさとトラックから
降りて、俺にも手伝わせてマグロを手際よく海水にボッチャンと入れてやり、それから
その上からまた防水シートをかぶせて、日差しをさえぎってやった。

「さ、行こうぜ」
彼は言って、トラックに飛び込んだ。


「とりあえず三浦半島の海にでも戻してやろうかと思ってさ」彼はそういった。
俺はよくわからないので、「そうだな」といった。
彼に任せたほうがうまくいくような気がしたからだ。
トラックが出発した。坂を下って行って国道一号線に入り、そしてしばらく横浜方面に
向けて走らせ、それから横浜横須賀道路に入った。


人助けというかマグロ助けてのはいいもんだなぁ。助かったよ。サンキューな」
俺は助手席でくつろぎながら、運転席にいる友人に言った。

「ああ…まあ」彼はちょっと照れていたのか、よくわからないことをぶつぶつとつぶやいた。

突然車内が少し暗くなった。
あれ?と振り向くとリアウインドウいっぱいにマグロの顔があった。
その顔は激怒でゆがんでいた。

トラックは急に左右に振れ、もう少しで中央分離帯に激突しそうになって、あともう
ちょいのところでぎりぎりブレーキを踏んで、ゼブラ帯で止まった。
後方から怒り狂った車のクラクションや野次がやいやいと飛んできた。
俺と友人ははあはあと肩で息をしてひざに頭を埋めた。

「いったい何事だ?」俺たちはちょっと落ち着いてから車から降りて、マグロの様子を
見に行った。
荷台の上には怒り心頭に達したマグロがシートをどけて仁王立ちになっていた。





「あんたたち」
彼女の胴間声があたりに響いた。俺たちはなぜかシュンとしてうなだれた…よく考えたら
怒られる筋合いなんてないんだけど。

「よくもあたくしを溺死させようとしてくれたわね。どういうつもり?!シートの中は
暑くて苦しくて息はできないし、いくらどけようとしてもなかなかどけられないし、
本当に死ぬかと思ったわ。
あんたたちみたいな死神に助けられたなんて思いもよらなかったことよ、あたくし」

マグロは怒り狂っていて、俺たちはその怒りを静めるのに本当に苦労した。

「あの、お嬢さん(そう呼びかけるとほのかにうれしそうだった)。俺たち人間はですね、
浅はかなもので、お魚、と見れば水が必要と思ってしまうのですよ。
本当にあなたが水が必要なくても生きていけるなんて、知らなかったし、悪気も
ぜんっぜん!なかったんです。どうか信じてください」
…みたいなことを延々としゃべってやっとマグロのお嬢さんは私たちを許してくれた。

「それからいいこと?お嬢さんって呼ばれるのは悪い気はしないけれど、あたくしにも
れっきとした名前があるんですのよ」
「へえ、そうですか。で、お名前とは?」
「陽子。陽子って言うんですの。これからは陽子さん、って呼んでくださいね」
俺は内心噴出しそうになりながらも、
「わかりました、陽子さんですね?」といった。
「あなた方はなんておっしゃるんですの?あたくしの名前だけ聞いておいて、
ずるいですわ」
「俺が浅井で、こいつが深井っていうんです」俺はそう自己紹介した。
「浅井さんと深井さんですね?わかりましたわ・・・」
マグロのお嬢さん、陽子さんはこっくりとうなずいた。

「ところで浅井さんと深井さん。あたくしこれからどうすればいいんですの?
海に戻していただいてもおぼれるだけみたいですし」

「お嬢さんは、あ、いや、陽子さんは以前どちらで暮らしていたんですか?
それがわかればそちらのほうに連れて行ってあげてもいいんですが」

「それがまったく、覚えておりませんの。覚えているのは陽子っていう名前だけ。
…あたくし、本当にこれからどうすればいいんでしょう?何も覚えておりませんのに」
突然陽子さんはヨヨと泣き崩れた。

俺たちは顔を見合わせてため息をついた。しばらくしてから深井が口を開いた。
「あの、お嬢さん、僕に名案があるんですけどね」
「あら、なんですの?」
「この先に、ちょっとした水族館があって」
「あらあなた、あたくし水はだめ、っていったじゃありませんか!」
「そうなんですけど、動物園なんぞにいくわけにもいかないし(何かのえさにうっかり
されても困るしね)。水族館だと広い場所があってあなたに似たような外見の魚も
いっぱいいて、居心地もいいかもしれませんよ」

「そうかしら・・・?」

「一般的な人間の住まいはですね、あなたのような体の大き目の方はちょっと
入れないし
たとえ入ったとしても身動きも取れない。だからやっぱり広い場所の
ほうが、あなたご自身にも居心地が良いと思いますよ」
…深井のやつ、なかなか説得がうまいじゃん。俺はそう思った。
「お友達もできて楽しく過ごせるかもしれませんし」
「そうなの…」
マグロのお嬢さんはまだ納得がいかないようだが、しょうがないというように、しまいには
うなずいた。ふう・・・なんとかなりそうだ。
それから俺たちは高速パトが通りかからないようと祈るような気分で、中央分離帯の
そばの排水溝に海水を流した。もしかしてそんなことをしているところを見つかって、
つかまったり、マグロのことを聞かれたりしたら絶対困ると思ったからだ。
俺たちは手早くやらなければならなかった。
そうでなくても中央分離帯で何かやってたら目立つに決まっている。まして大きな魚が
いるのだ…徹夜明けでフラフラの俺はここでも死に物狂いでがんばった。
 
*

それから俺たちはトラックに乗り込んだ。どうしても、と言い張るので、マグロの
お嬢さんが助手席に座り(ものすごく窮屈そうだったが、トラックの荷台はもう
ごめんだそうだ)、俺はトラックの荷台にしがみついていた…潮くさく、べたべたとした
海水で濡れていて、猛烈に暑い上に、しかもものすごい恐ろしさだった。

トラックは1時間ほどかけて、やっと水族館に着いた。高速道路を下りてからの、
俺たちのトラックが歩道を歩く人たちからいかに注目を浴びたかについては、
思い出すのもうんざりだ。
何しろ俺はトラックの荷台で、人々が何を言っているのか、しっかり聞いていたのだ。

水族館で、俺たちはあちこち駆け回って係員にあたったり、受付にあたったりして、
やっと話のできる人に(かなり強引に)紹介してもらった。思いっきり誇張して
「世にも珍しい珍種の魚を拾ったので鑑定してほしい」とか、「その珍しさといったら
世界初、きっと古今東西いまだかつて見つかったことのない新種に違いない」などと
むちゃくちゃ言って、それはもう、必死の形相だったに違いないが、
その迫力に圧倒されたのか(危ない人物が来ているとか何とか、警察に通報されなくて
良かった)、なんとか館長の所に通してもらえたのだった。

俺たちは館長を連れてトラックに戻った。館長がマグロを見て明らかにがっかりしたのが
見て取れた。その失望はすぐに怒りに変わった。
「あのね、俺は忙しいんだよっ。単なるマグロに付き合ってる暇はないんだよ。
ちょっとでかいっていうだけじゃないか!!」
館長はとても怒っていた。
「ちょっとでかいって、ものすごいでかさじゃないですか」
「あのねぇ、こんなにでかかったら水槽もでっかいのがいるし、えさだってたっぷり
いるんだよ。俺たちはボランティアで魚を世話しているんじゃないんだ。冗談じゃない、
海に放せばいいだろう!」
「そ、それが・・・」

「あたくしに言わせて、浅井さん」
そのとき、マグロのお嬢さんが憤然と立ち上がった。それを見た館長や、その周りに
いたスタッフ数人が蒼白になって後ずさりした。

「おたく、水族館の館長してらっしゃる方でしょう?その割には余り魚類に造詣が
深くないというか、認識が浅いんじゃございませんの?
世の中にはいろいろな魚類、まだ未知の魚類がいても、まったくおかしくはないと
思いますわ。この広大で、深い深い海のことですもの。そんなこと、お考えにもならない
ですの? あたくしにだってプライドはございますのよ。でもほかに行き先がないと
この方たちがおっしゃるから、わたくしはここまで参りましたのに・・・」

そこまで言うとマグロの陽子さんは肩を震わせて目に涙を浮かべた。誰もかもが
あっけに取られていた。

「まったく・・・おかしな話だよ」館長は吐き捨てるように言った。
「長年水族館に勤めてきたがこんな話は初めてだ。いきなりアポもなしに二人の若者が
どかどかやってきて、道路で拾った魚を引き取ってくれという。その魚は巨大でしかも
しゃべると来た。なんてこったい」
「お宅の水族館、あんまり儲かってないんでしょ? いつ来ても閑散としてるよね」
深井の目がきらりと光った。

「イルカとアシカのショーなんかでも、オリジナリティがあって面白いんだけど、
マンネリなんだよね。小さい子供しか喜ばないよ、あんなのじゃ」
館長が露骨にムッとした。


「館長さん、ここでひとつ提案。このマグロのお嬢さん、名前は陽子さんという。
なんと自作の詩を詠めるんだぜ!」
深井が息を大きくすった。
「それでね、この陽子さんにひとつ詩の朗読タイムでもいかがです?えさ代かせぎには
なるかもしれませんよ」
「マグロの朗読会なんて誰が見にくるもんかね!」
「そんなことわからないじゃないですか」
「えさだなんて・・・ああ、わたくしにだって人権はございますわ」
「陽子さんは黙っててください。記憶も行き先もはっきりとはしないんですから、ここで
いろんなことをおっしゃると全てだめになってしまいますよ」

陽子さんは再び泣き崩れた。
それから深井と館長がいろいろ話し合って、陽子さんは一応当水族館で預かって
もらうが、その間は食事代稼ぎに、ショーに出演して人間と組んで、コメディータッチの
司会を受け持つ。
そして詩の朗読もする。ショーが失敗したら、すぐに引き取る。そういう契約で一応
陽子さんの居場所が決まったのだった。
俺はその間、呆然と事の成り行きを見詰めていただけだった。まるで白昼夢を見ている
ようだった。
陽子さんは必死に感情を自制しているようだったが、最後に一言だけ言った。
「あたくしの食べ物の好みを聞いていただかないと・・・。ほかのアシカやイルカなどと
一緒にされては困りますわ」
館長の目が丸くなった。
「なんだね?」

「あたくし?基本的には好き嫌いはないつもりですけど、以前は何でも取り寄せで、
一番良いものだけをえりすぐって、我が家のシェフが作ってくれるものをいただいて
おりましたわ。シェフにお任せでしたので、よくは知りませんけれど。よほど急ぎの
買い物があって、仕方なしに間に合わせのものを買う場合は紀ノ国屋スーパーが
近所にあったので、そこに行っていたようですけど、それも母は機嫌を損ねて」

「あんたいったいなにもんだね?」館長が苦々しげに言った。
「さあ・・・。それがわかれば苦労しないですわ。まぁ、あたくしったら!朝から
何にもいただいてないから、なんだかお腹が空いてきちゃったわ。
何か出してくださいな、どなたか」

「コイワシしかないよ」
「まぁ・・・。あたくしがいただけるのかしら?」
「あんたはマグロなんだから、食べられるだろ」
「お刺身にしていただけるの?」
もちろん、館長は絶句した。
陽子さんはコイワシをぶつくさ文句を言われながら出してもらい、いかにもまずそうな
顔をしながら、と同時に「どうしてこんなものがわたくし、食べられるのかしら?」と
言わんばかりの怪訝そうな表情を顔に浮かべてペロリと平らげた。

良かった。食事の心配はないようだ。「必ずしょっちゅう様子を見に参りますから。
どうぞよろしくお願いします」といいながらぺこぺこお辞儀をして、俺たちは陽子さんを
押し付けるようにして、そそくさと帰途に着いた。水族館の人たちは館長をはじめとして、
みんな不安と不満で無口になって、俺たちを不機嫌そうに見送った。

俺たちはマグロの陽子さんのほうを見ないようにしていた・・・行く途中の激怒して
トラックのリアウインドウから覗いていた、あの恐ろしい顔が忘れられなかったのだ。
 
*

俺はその日、夜遅くにやっとのことで自宅に着くと、それから次の日の昼過ぎまで
眠りつづけた。疲労の極致に達していたが、なかなか熟睡できず、何度も何度も
うなされて、輾転反側する羽目になった。
俺の夢の中には巨大なマグロが出てきて、次から次へと無理難題を吹っかけて来た。
問題はまったく解決できず、俺は逃げ回るのだが、どこまでもマグロが追っかけて
くるのだ。それもものすごい恐ろしい形相で。それはちょっと前に、車の事故の後に
俺をふった彼女の冷たい顔と重なり、ものすごく苦しい気分になった。

その後、深井も少しの間連絡してこなかった。なるべく頻繁に様子を見に行くといって
おきながらちょっとひどいかと思ったのだが、やっぱり行く気が起きなかったのだ。
あのうなされた夢の影響が大きかったのかもしれない。


俺はそれからしばらくして、地元の新聞やテレビで、例の水族館が大きな話題に
なっているのを目にするようになった。
水族館に信じられないほど知的で教養あふれるマグロのお嬢さん、陽子嬢が、
人間のスタッフと組んで、イルカとアシカのショーの司会をしているのだが、それが
あまりにウイットに富み、おもしろおかしく、また珍しいので人が大勢押しかけている、
というものだった。
またそのマグロは、自分のショーも持っており自作の詩を詠んだり、またとてもきれいな
声で歌を歌ったり、ダンスを踊ったりするのだが、それがまたすばらしく芸達者で
うまいので、そのショーがあるときはあまりに大勢の客が押しかけるものだから、
建物に入りきらない人も大勢出て大変なことになっているのだという。

あまりに人気が出たので、水族館側はホクホク、館長がえびす顔でそのマグロの
陽子嬢を絶賛しているという。…あのときはあれだけボロカスだったくせに。
俺は少し得意な気分になって一人ごちた。あの天才マグロ嬢を見つけたのは、
この俺だぜ。しかも死にかけていたのを助けてやったんだ。俺って目の付け所が
すごいじゃないか?

ほんというと、恐怖ですくんでいたくせに、俺はそんなことを考えていた。
よし、会いに行ってもいいかもしれない。マグロはもう怒ってなんかいないだろう。
女だから、スターになって、今ごろは得意の絶頂かもしれない。あの深窓の令嬢
みたいな言葉遣いで暖かく迎えてくれるかもしれないな。
感謝の言葉で粉飾した言葉遣いで。俺は意味もなくニヤニヤ笑った。
そして思い立ったら即、の俺は立ち上がって、そのころやっと手に入れた中古の車を
駆って、水族館へと向かった。

 
俺は水族館に着くと、ショータイムでないときを見計らって、面会を申し出た。
少ししてから、陽子さんは出てきた。

「やっと会いに来てくださったのね。もういらっしゃらないのかと思っていましたわ…」
陽子さんはなんだかやつれて見えた。
前会ったときよりもずっとずっと疲れているようだった。
「すみません、俺・・・」
「ええ、ええわかっていますわ。お忙しかったっておっしゃるんでしょう?」
「申し訳ないです。約束しときながら」
俺は素直に言った。
「お話はそれだけ? あたくし忙しいんですの。いろいろ準備もあって。ちゃんと
暮らしてますわ、ごらんのとおり。周りのおばかさんなイルカやアシカたちはお友達には
とてもなれませんし、もちろん人間の方たちもあたくしとは・・・。
でもなんとかやってますの。だからもうおいでにならなくても結構ですわよ」

そう言う声音には、とても孤独でさびしくて、何で今まで放ったらかしにしていたの?
ずっと待っていたのに、という彼女の気持ちがあふれんばかりに詰まっているような
気がした。

「ずいぶん辛い目にあわせてしまったみたいで…。すみません。…無責任だったと
思います。」
俺は自分の甘さ加減、おめでたさ加減をのろいながら彼女に心から謝った。
彼女は深くため息をついた。

「もういいんですの、浅井さん」
そこで一度口を閉じ、陽子さんはちょっと思い切ったように、再度口を開いた。
「実はあたくし命の恩人であるあなたに、あの日とても偉そうなことを申し上げました
けど、密かにお慕い申しておりましたの。一目ぼれ、だったのかもしれませんわ。
あの日、あなたはあたくしを命がけで助けてくれようとして下さったでしょう?」
俺はギョッとした。え?俺に…恋?
「でも、はっきり言わせていただくけれど、それは過去のことですわ。あなたは
あれから一度も来てくださらなかった…。
あたくし、自分の実力と魅力とで、たくさんの方に絶賛していただくことができました
のよ。ショーってのは、人が思うよりずっと、それを作る立場って大変ですの。
結構頭も使いますのよ。だからイルカやアシカには無理なんですよね、もちろん。
あたくしは自分自身の才能をもってショーを成功させましたわ、浅井さん。
でもその影にはね、一人の方の大きな助力がありましたのよ」

そのときだった。マグロの陽子嬢の後ろからすっと人影が出てきた。

「深井?!」
俺はまたもや愕然とする羽目になった。俺は…どこまでもなんてめでたいやつなんだ。
俺がいないからやつれたんだと思い込んだ、この早とちり。

「ずっとあれから毎日来て、何かと気にかけて、あたくしに親切にしてくださいましたの。
ショーが軌道に乗るまでの折衝や食べ物の交渉、ほかのスタッフがあたくしを
ぞんざいに扱っていないか…。本当にいろいろなことに心を砕いてくださいましたわ」

深井は俺を真っ向から見据えた。
「誘わなくて悪かったな。だが俺はここに陽子さんを連れてきた責任がある。
必死だったんだ。陽子さんが辛い目に会ったり、追い出されたりするようなことが
あれば、俺は耐えられなかった」

深井は陽子さんの肩に手をかけた。

「俺はこれからも陽子さんを守っていこうと思う。俺たちは心から愛し合ってるんだ」
「ああ、深井さん・・・」
陽子さんは深井を見て、はにかんだようにつぶやいた。
 
*

「ええ?!陽子さんと深井が深い仲!?」俺は思わず叫んだ。
「シーッ」深井と陽子さんが同時に言った。
「俺たちは・・・この水族館の中の空き部屋を借りて、もう一緒に暮らしているんだ」
陽子さんは真っ赤になって(マグロが顔を赤らめる?)下を向いていた。

「部屋?」
「ショーが軌道に乗ってから、単なる空き部屋を館長が豪華な洋室にリフォームして
くれた。もちろん俺たちの仲を承知で」

「陽子さんは、真夜中真っ暗な部屋の中でだけ人間の姿になる。それが本来の姿
なのだと俺も陽子さんも思っている。だが少しでも明るさがあればその姿にはならない。
だから俺は陽子さんの人間であるときの容姿はまったく知らない。だが陽子さんが
どんな外見をしてようと・・・」
深井は陽子さんをいとおしげに見つめた。
「一生をかけて愛し、守るつもりだ。陽子さんは素晴らしい女性だ」
深井は続けた。

「浅井。悪いけれど、俺たちのことは忘れてくれ。つうか、そっと遠くから見守って
おくだけにして、もう来ないでくれ。 わかってくれるか? 」
深井に言われて俺は頭が真っ白の状態で、こっくりとうなずいた。

そしてその場を立ち去った。

俺は呆然としたまま帰途についた・・・。

 


*

彼らがどうなったのかその後俺は知らない。ショーのことも時折は耳にしたが、
何年か経つうちに、俺はだんだん忘れていった。時折あのときのことを思い出すが、
夢の中の出来事だったような気がするときもある。陽子さんはいったい何者で、
もし人間であったなら、なぜ記憶喪失のマグロの姿になってしまったのだろう。

その後、深井と暮らすうちに、人間に戻ったのであればいいけれど…と心底思う。
いろいろと不便だろうし、もし深窓の令嬢だったなら、あんな姿は嫌だろうから。
深井に愛されているのであれば、きっと人間の姿で堂々と愛し合いたいと思うのでは
ないか?俺はそう思う。

あの時陽子さんがやつれていたのは、昼夜忙しかったからではないかとふと思った。
深井に深く愛されて、陽子さんは幸せだっただろうか?
いまだに女心に疎くて、相変わらずぜんぜん幸せをつかめない俺は、それでも
陽子さんはそれほど幸せそうに見えなかったと思う。でも本当のところはわからない。
単に疲れていただけかもしれないからだ。

 
終わり


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